早稲田大学エジプト学研究所
 
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マルカタ南遺跡

1. マルカタ南

マルカタ南発掘風景
マルカタ南発掘風景

 われわれの発掘地マルカタ南は正式にはディール・アル・シャルウィートと呼ばれ、グレコ・ローマン時代に建立されたイシス女神を祀った神殿がある。神殿は砂岩で造られ、その聖域を示す周壁の基礎と塔門が現在でも残っている。この神殿は、19世紀中頃、ドイツのエジプト学者レプシウスが調査しているが詳しい報告はされていない。われわれはマルカタ南の発掘の際総ての発想の原点をここに持った。グレコ・ローマン時代、ビザンチン時代を通しこの神殿が、この周辺の宗教上、行政上の中心だったと考えたからである。またこの神殿が、耕地との境界に建てられていることから、古代エジプトの建造物建築上の法則に合っていることは、古代エジプト王朝時代にもここには何らかの文化的所産を示す足跡があったと考える根拠を示している。神殿域の標高は77〜78m、周壁は厚さ 3.0〜 4.0mあり、塔門と神殿の軸線(E10°S)に対し左右対称となっており、その内側の神域は約74×51mの長方形となっていた。

マルカタ南遺跡地図
マルカタ南遺跡地図

2. ローマ時代の集落域

  イシス神殿の東北一帯に素焼きの土器片が無数に散乱していたが、われわれはこの地域を神殿周辺で最重要地点と考え、耕地との境界部分から発掘を開始した。
 調査開始後、現地表下60cmから泥レンガを並べた一辺 3.0〜 3.5mの方形の部屋が十数室からなる建物址が発見された。この建物のレンガ積みは、その後発掘調査が進むと、複合していることが判明し、数度の建て変えがあったことが解った。この地区からの出土遺物は、各種の土器多数をはじめとして、ランプ(テラコッタ製)、青銅製の女性像、燭台、シンバル(青銅製、祭祀用と思われる)、牛頭神像(石灰岩製)、コイン、オストラコン等であった。尚コインの一部の錆落しをしたところトラヤヌス帝とハドリアヌス帝(ローマ皇帝)のものが数個発見されたので、この建物址は紀元2世紀頃、使用されていたと考えられる。建物址の西周辺からは、頭の大型の土器片をかぶせ手厚く葬られた20体を越す牛骨(祭祀用聖牛)が発見され、前記の出土品と照合すると、この建物址はイシス神殿に付属する神官たちの住居と推定される。

ローマ住居址遺構図1
ローマ住居址遺構図
ランプ
ランプ
牛頭神像
牛頭神像
コイン
コイン

3. 埋葬

 ローマ時代の建物址の発掘にともなって、遺跡のあちこちに試掘溝を掘ったが、かなりの数の埋葬人骨は発見され、また「魚の丘」からも、多くの人骨と陶棺に納められたミイラが見出された。陶棺は低火度の焼成による粗末なものだが、蓋と身に分かれる人型棺で、顔面、乳、足などが表現され、中にはロータスが描かれているものもあった。ミイラ自体は、十分なミイラ化処理が行われていないので、白骨化が著しく、ミイラ化の部分は少ない。また副葬品も無く、古代王朝時代のミイラの最末期の伝統として受けとることができよう。「魚の丘」には陶棺の破片が散乱し、また一方、盗掘にあっていない陶棺も埋葬されているので、ローマ時代のある時期、ここは墓地として利用されていたと推定される。
 埋葬人骨の多くは伸展葬で、ビーズ玉、青銅の装身具、土器が埋葬品として発見されている。尚、ローマ時代建物址に接して、牛の埋葬が数例見つかっている。建物址内から発見された牛頭神像とともに、当時、牛信仰のあったことを示している。

陶製棺の蓋(ローマ時代集落址出土)
陶製棺の蓋(ローマ時代集落址出土)
牛埋葬
牛埋葬

4. 旧石器調査

 マルカタ遺跡からは、第1次調査を中心に、旧石器時代後期の石器であるブレイド、スモール・ブレイド、マイクロ・ブレイド等が2千点以上、地表下 230〜 250cmで発見された。また発掘地点の西方、リビア砂漠の低い段丘からは、旧石器時代中期のルバロア技法によるムスティエ型石器が数百点見つかっている。

後期の旧石器群
後期の旧石器群
中期・後期の旧石器群
中期・後期の旧石器群

5. 「魚の丘」遺跡と彩画片

 ディール・アル・シャルウィートのイシス神殿の北方約 250mほどの砂漠の中に「魚の丘」(現地名コム・アル・サマク)と呼ばれている小さな丘があった。この丘は東北−西南方向に長さ約80m、高さ約 3.7mの長円形のものであった。この丘は当時幅約5mほどの盗掘溝で二分されており、大小二つの丘より成っていた。北側の小丘を発掘したところ、幅 3.5m、奥行55cm、高さ5〜7cmの彩色画をほどこした20段の階段を発見した。階段の踏面は表面に漆喰が塗られ、絵が描かれてあった。絵柄は、二張り一組の弓と人物とを交互に配したもので、白い長衣をつけ、両手を後ろで縛られ、つま先立っている3種類の民族を表わしていた。それらは異国の捕虜であり、その特徴からヌビア人およびアジア(シリア)人と推定される。その後の研究により、もともと階段は30段あったと考えられる。また各段の高さが通常のものより低いことや、踏面に捕虜の図が描かれていることから、この建物址は、第18王朝アメンヘテプ3世(紀元前14世紀前半)に関する儀式用のものであることが考えられる。この丘には、人骨や陶棺片が散乱していた。それは、グレコ・ローマン時代のものであった。
 「魚の丘」の建物址から出土した遺物はあまり多くなかったが、この彩壁画片は異彩をはなつものであった。彩壁画片とは、当時建てられてあった建物の内壁又は外壁に描かれていた壁画の破片の残存物のことを指す。何故残存したかといえば、この建物が一度とりこわされ、新たな設計のために、前の建物の建材を新しい建物の建材に再利用したことが第一の理由としてあげられる。また、後の建物が破壊された時(自然又は人為倒壊)そこに残ったものもある。中央基檀上の破片は後者のもので、南スロープ内詰め物として発見されたものは、前者のものであると考えられている。魚の丘から出土した彩壁画片は数千点になるが一片の大きさはばらばらで、30×50cmのものから豆粒大のものにいたる。これらを面積計測したところ全部で4平方メートル弱となり、当時壁画を飾っていた壁画の数パーセントにあたるに過ぎず、壁画の復元には時間を要する。図柄のモチーフには大別して2種類ある。第一は幾何学文様系統のもので、建物の天井や壁の縁を彩るもの。第二はそれに囲まれた空間に描かれた、人物や建物、動植物、器物、供物、自然風景などである。色彩は、黒、青、赤、緑、黄、白など。顔料は他のエジプトのものと同じ鉱物顔料であり、描写法も当時の貴族私人墓のそれと同系統のものと考えられる。美術史上貴重な資料として今後研究が待たれる。

魚の丘全景
魚の丘全景
魚の丘遺構図
魚の丘遺構図
彩色階段出土状況1
彩色階段出土状況
彩色階段復元
彩色階段復元
「魚の丘」の彩画片(幾何学文様)
「魚の丘」の彩画片(幾何学文様)
「魚の丘」の彩画片(器物装飾)
「魚の丘」の彩画片(器物装飾)

6. イシス神殿地区の発掘

 井戸址はイシス神殿の神域内の北側にあり、発掘前は雑草の密集した浅い窪地であった。地表面から約1mは礫や土器片を多量の含む乾いた土層、それ以下は水分を多く含む黒色土、赤色焼土、灰などの層があり、地表下4mで湧水のために発掘が不可能になるまで、32層が判別された。遺物は土器を中心に豊富に出土し、アンフォーラと呼ばれる両側に把手のついた細長い壷、彩文のある土器、刻印文や爪形文のある皿など多数発見された。土器の中には十字架の刻印を持つものもあり、エジプト土着のキリスト教(コプト)文化との関係がうかがわれる。また、グレコ・ローマン時代の石碑の頭部断片が出土したが、碑文の磨滅のために正確な時代は決定できなかった。
 井戸自体は、直径11mほどを素掘りして、その内側にレンガの周壁を積み上げた構造をもち、南東側には砂岩の切石を使った階段がつけられ、周壁に沿って井戸の中に降りられるようになっている。階段は18段まで確認できたが、さらに水の下へと続いていた。
 井戸の中の堆積物は、周縁部から中心部に向かう傾斜のある層をなしていた。出土した土器には底や口の欠けたものが多い。井戸が使われなくなったあと、土器や灰を中心とする廃棄物が投げこまれたために、こういう堆積になったのであろう。
 井戸址の発掘は、隣接するローマ建物址の性格解明の目的で開始されたが、研究が遅れているグレコ・ローマン時代以降のエジプトの土器集成の史料としての価値も持つことになったのである。

イシス神殿遺構図
イシス神殿遺構図
井戸址完掘
井戸址完掘
赤色スリップ土器
赤色スリップ土器
石碑
石碑


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