早稲田大学エジプト学研究所
 
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ルクソール西岸貴族墓調査

1. はじめに

 早稲田大学古代エジプト調査隊は、1974年1月にエジプト・アラブ共和国、ルクソール西岸のマルカタ南遺跡の「魚の丘」において新王国時代第18王朝、アメンヘテプ3世の彩色階段を発見して以来、アメンヘテプ3世時代を研究することを目的として、これまでにマルカタ王宮址、アメンヘテプ3世王墓、同王時代の岩窟墓の調査等を実施してきた。
 こうした研究の流れの中で、新たに2007年度より、ルクソール西岸、アル=コーカ地区に位置するアメンヘテプ3世時代の岩窟墓、第47号の調査を開始した。調査の対象とした第47号墓は、アメンヘテプ3世の王妃ティイの家令を務めたウセルハトという人物の墓で、この時代を理解するためには欠かすことのできない重要な岩窟墓である。1903年にはハワード・カーターが報告を行い、またこの墓に由来する王妃ティイのレリーフが、ベルギー、ブリュッセル王立博物館に所蔵されるなど、エジプト学の初期の段階からその存在が広く知られていたものの、カーターの報告から100年以上たった現在では正確な位置すら不明となっており、再発見および再調査を必要とする墓であった。

ルクソール西岸
ルクソール西岸
第47号墓ティイ王妃のレリーフ(Carter 1903 pl.II)
第47号墓ティイ王妃のレリーフ(Carter 1903 pl.II)
アル=コーカ地区周辺遺跡地図
アル=コーカ地区周辺遺跡地図

2. 第47号墓の立地

 ルクソール西岸の岩窟墓群がある地域は、北からアル=ターリフ地区、ドゥラ・アブ・アル=ナガー地区、アル=アサシーフ地区、アル=コーカ地区、シェイク・アブド・アル=クルナ地区、クルナト・ムライ地区の6つの地区に区分されている。カーターの1903年の報告によれば、第47号墓はこのうちのアル=コーカ地区に位置し、「クルナ村のオムダ(村長)の家の背後から約50mの位置」にあるとされる。調査隊では、こうした記述をもとに同地区の踏査を行い、調査地をアル=コーカ地区の西端の窪地に選定した。窪地の北側には第174号墓、第-62-号墓、第264号墓、第-330-号墓の4基の墓があり、これらの墓も調査対象となった。

3. 第47号墓の調査

 調査地の第174号墓、第-62-号墓、第264号墓、第-330-号墓では、近年までクルナ村の住人が住んでいたため、調査開始時には窪地はゴミ、瓦礫などによって大部分が覆われていた。更に、2007年にはクルナ村の移住計画に伴い、墓内外に築かれていた住居が撤去されたが、撤去の際に生じたゴミ、瓦礫、廃材などは残されたままであった。
 こうした中で、2007年度、2008年度に行われた第1次、第2次調査では第47号墓を再発見することが主な調査課題となった。発掘調査の結果、2007年度の第1次調査において、窪地の底から新たに墓の一部が発見された。2008年度の第2次調査では、墓の入口上部からレリーフ装飾が発見された。レリーフ装飾には、神々に礼拝するウセルハトが左右対称に刻まれており、この墓が第47号墓であることが確定した。これによりハワード・カーターの報告以来、約100年ぶりに第47号墓が再発見されたことになる。
 発掘調査の過程では、ほとんどが近年の撹乱層からの出土であるものの、レリーフ片、ファイアンス製ビーズ、スカラベ、木製耳、棺、葬送用コーン、ウシャブティ、土器など、埋葬に関連する遺物が出土しており、当時の活動を考察する上で重要な資料を得ることができた。

第47号墓とその周辺 発掘前(東より)
第47号墓とその周辺 発掘前(東より)
第47号墓とその周辺 発掘後(東より)
第47号墓とその周辺 発掘後(東より)
第47号墓とその周辺 発掘前(南より)
第47号墓とその周辺 発掘前(南より)
第47号墓とその周辺 発掘後(南より)
第47号墓とその周辺 発掘後(南より)
第47号墓入口上部レリーフ
第47号墓入口上部レリーフ

4. 第47号墓周辺の墓の調査-第174号墓、第-62-号墓、第264号墓、第-330-号墓-

 第47号墓の北側に位置する第174号墓、第-62-号墓、第264号墓、第-330-号墓の4基の墓はこれまでクルナ村の住人の住居となっていたことなどもあり、発掘調査や正確な記録作業は行なわれておらず、本調査が初めての総合的な調査となった。
 第1次および第2次調査では、今後の本格的な調査に向けて、測量、建築学的観察、碑文記録および保存修復に向けたコンディション・サーベイ、テスト・クリーニングなどの基本的な調査を行った。ここでは4基の墓のうち、第174号墓について調査の概要を述べる。

5. 第174号墓の調査

 第174号墓の平面プランは、前庭部と斜面に掘りこまれたT字形の礼拝室から構成されており、また奥室西側に穿たれた部屋には地下へ続くシャフトが確認された。また、前室の西側部分が近年の民家の一部として再利用されており、調査時には泥漆喰の壁で封鎖されていた。
 前室東側には北壁に上下2段からなる彩色レリーフが残存している。壁面の上段には、左側に椅子に腰掛けた被葬者夫妻と供物を差し出す男性像があり、右側には椅子に座る人物像がある。上段に描かれた図像は一見同じ場面を表現しているように見えるが、左側と右側で様式の違いが認められ、それぞれ新王国時代第18王朝と第20王朝に年代付けることができる。また、下段には、供物と儀式を行う剃髪の神官が6人描かれており、碑文からは、被葬者アシャケトが彼の息子とともにオシリス神に対して儀式をしている場面であることがわかる。同じく図像の特徴から、第20王朝に年代付けることができる。碑文の調査から、第174号墓は、第18王朝時代に造営され、更に第20王朝にアシャケトという人物によって再利用されたことが判明した。

第174号墓前室東側の北面
第174号墓前室東側の北面
壁画の上段 第18王朝
壁画の上段 第18王朝
壁画の上段 第19〜20王朝
壁画の上段 第20王朝
壁面の下段 アシャケトと息子 第19〜20王朝
壁面の下段 アシャケトと息子たち 第20王朝

6. おわりに

 これまでの調査の結果、神々に礼拝するウセルハトのレリーフが発見されたことにより、カーターの報告以来、第47号墓が約100年ぶりに再発見された。今後は第47号墓の前庭部、内部の発掘調査を継続し、遺構の全容を解明することが課題として挙げられる。
 また、第47号墓の周辺の墓(第174号墓、第-62-号墓、第264号墓、第-330-号墓)では、それぞれの墓の碑文記録、建築学的調査、保存修復作業を行い、詳細なデータを得ることができた。
 今後も発掘調査および出土遺構・遺物の研究を継続し、第47号墓について更に詳しく明らかにしていきたいと考えている。

7. 参考文献

  • Carter, H. 1903 “Report of work done in upper Egypt (1902-1903)”, Annales du Service des Antiquites de l’Egypte 4, pp.171-180.
  • Eigner, D. 1983 “Das Thebanische Grab des Amenhotep, Wesir von Unteragypten: Die Arkitektur”, Mitteilungen der Deutschen Archaologischen Instituts Abteilung Kairo 39, pp39-50.
  • Kampp, F. 1862 Die Thebanische Nekropole, Zum Wandel des Grabgedankens von der XVIII. bis zur XX. Dynastie, Theben 13,2 vols., Mainz am Rhein.
  • Porter, B. and Moss, R.L.B. 1960 Topographical Bibliography of Ancient Egyptian Hieroglyphic Texts, Reliefs, and Paintings, I: The Theban Necropolis, Part 1: Private Tombs, Oxford.
  • van de Walle, B., Limme, L. and De Meulenaere, H. 1980 La collection egyptienne, Les etapes marquantes de son developpement, Bruxelles.
  • 近藤二郎 1994 「テーベ私人墓第47号」、『エジプト学研究』第2号、早稲田大学エジプト学会、pp.50-60.
  • 近藤二郎・吉村作治・菊地敬夫・柏木裕之・河合 望・西坂朗子・高橋寿光 2009 「第1次ルクソール西岸アル=コーカ地区調査概報」、『エジプト学研究』第15号、早稲田大学エジプト学会、pp.39-70.


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